ハンス/甲田の調査報告書

ハンス/甲田の調査報告書 file.3「クリスタルナハト(水晶の夜)」とは。

主人公・ハンスを演じるアガリスクエンターテイメントの甲田守が、実感を持って演じるために『わが家の最終的解決』周辺のあれこれを調べてレポートする企画です。
毎週水曜日に更新しております。

関東大震災とクリスタルナハト。

10月25日の朝日新聞朝刊にこんな記事がありました。
(ザ・コラム)「無知が生む敵意 国をさいなみ滅ぼす魔物」と題する記事です。


『己と意見の違う相手は「国民の敵」「反社会的勢力」と切り捨てる。隣人でも国籍が違ったり生活保護を受けていたりすれば、「在日特権」「弱者利権」と、ののしる。』
そんな息苦しい社会になっている現在を嘆く筆者は1923年9月1日に起こった関東大震災を思い返します。
震災後、各所を朝鮮人が襲撃しているなどの官憲発のデマが被災地では飛び交いました。デマは新聞社の加担もありあっという間に市井に広がります。そして自警団が組まれ朝鮮人に対する暴行、殺人にまで至ります。
過去の出来事ではありますが現在にも通ずるところがあるのではないでしょうか。
筆者は「新潮45」の件を引き合いに出しこう締めくくります。
「敵意を呼び起こす言論には社会を破壊する毒があることを、放つ者は自覚すべきだ。」と。
「新潮45」について言及するこの記事には納得させられますがそれについてはここでは一旦置いておきます。
この記事で私が想起させられたのはクリスタルナハト(水晶の夜)事件についてです。
官憲発のデマが民衆に広まり自警団ができる。そして暴行、殺人にまで至るというこの震災後の出来事はクリスタルナハト(水晶の夜)事件とどこか似ていないでしょうか。

クリスタルナハト(水晶の夜)とは

1938年11月9日夜から10日未明にかけてその事件は行われました。今からおよそ80年前のことです。ドイツ全土に渡って突撃隊や親衛隊がユダヤ人の商店、墓地、学校、家、ユダヤ教礼拝所であるシナゴーグを打ち壊しました。
建物の多くの窓ガラスが砕け散った様がまるで水晶のように見えたためこの事件はクリスタルナハト(水晶の夜)と名付けられています。
このときのユダヤ人の被害は殺人被害者91名、重傷者・自殺者32名、身柄拘束者が3万名にまで上っています(芝健介『ホロコースト』)。
先に述べましたように関東大震災では民衆による自警団が組織され彼らが朝鮮人への暴行、殺害を行いました。比べてクリスタルナハトでは民衆の関与はどのようなものだったのでしょうか。『ホロコースト』にはこのような記述があります。
「もちろん便乗行動はあったが、多くの住民は不安な面持ちで押し黙って事態を眺めていたのである。」
ナチ党によって組織的に行われたことは住民の誰もが知っていたようですが多くの住民は関心がなかったり受動的だったといいます。確かに一面的にはそうであったのかもしれませんが能動的な加害者がいたであろうことはハンス・ペーター・リヒターの自伝的小説『あのころはフリードリヒがいた』から窺えます(もちろん受動的であったり無関心であることが直接的な加害がなかったからと言って非難されないということには当たりません)。

ポグロム(一九三八年)と題する章に民衆によるユダヤ人への加害が描かれています(ポグロムとはロシア語からきた言葉で1917年のロシアでのユダヤ人迫害が元になっています。襲撃や虐殺などのユダヤ人迫害の集団的行為の意味として使われます)。
ドイツ人である「ぼく」は学校からの帰り道にある一団に出会います。彼ら彼女らはユダヤ人の見習い工の寮へと向かっていきます。ぼくもその一団についていきます。寮に着いた一団は建物を開けろと罵り始めついにはドアを破壊しようとします。いつの間にか「見物人の輪の中からも一人加わり、二人加わり」、「気がついたときには、ぼくも力いっぱいドアを押していた。どうやってドアのところまできたのか、自分自身、もうわからなかった。そのときには、見物している人はもう一人もいなかった。」
民衆が加害的立場にいるその客観的描写だけではなく、ぼく自らがどのようにしてその加害的立場に至るかというその過程までもがここでは描かれています。
さらに加害はどんどん増長していきます。その状態がどのようなものなのか、少し長いですがそのときのぼくの状態を見ていきたいと思います。

「はじめ、ぼくは、その金槌をただもてあそんでいた。無意識のまま、柄を握ってふりまわしていた。と、偶然、先がなにかに当たった―ガラスが音をたてて割れた。こわされた本棚に残っていたガラスだった。
ぼくははっとした。が、同時に目覚めたのは、好奇心だった。ぼくは、割れたガラスの残りを金槌でそっとたたいてみた。ガラスはかりかりと枠から落ちた。おもしろくてたまらなくなった。三枚目になると、ぼくはもう、力まかせにたたき割った。破片がとび散った。
勢いづいたぼくは、金槌をふりまわしながら廊下を闊歩した。じゃまになるものは片っぱしからたたきのけた。いすの脚、ひっくりかえった戸棚、ガラスコップ。体中に力がみなぎるのを感じた!自分のふりまわす金槌の威力に酔いしれて、声高らかに歌いたいほどだった。」

ここに出てくる「ぼく」は自らには起こり得ない他人事として遠ざけることが果たして可能なのでしょうか。関東大震災後のデマに流された人々も同じくです。自分自身にひきつけて考えていかなければならないのではないでしょうか。冒頭の記事にもありましたように無知が生む敵意は瞬時に自らを蝕んでいきます。
さて、クリスタルナハト(水晶の夜)での民衆による加害について述べてまいりましたが、もちろんのことながら民衆だけに加害的責任を負わせるわけにはいきません。その主導者はやはり先にも述べたようにナチ党による突撃隊や親衛隊であります。ここからはこれらの組織について考えていきたいと思います。

突撃隊、親衛隊とは何か。

突撃隊はドイツ語でSturmabteilungenといい略してSAとも呼ばれます。元はナチ党の集会時に演説者や党幹部を反対党の襲撃から守るための会場警備隊でした。それが突撃隊へと改名されるのが1921年のことです。
突撃隊はどのような組織かを簡潔に述べますと、それはナチ党による武力組織でした。
注意してみていきたいのがこの組織は警察でもありませんし軍隊でもありません。現在の日本で考えるならば自由民主党や立憲民主党などの一党が自らの主張を広めるために暴力団などの武力組織を自前に持っている、という風に考えると少しわかりやすいかもしれません。
突撃隊は組織として拡大していくのですが政権掌握後の1934年に党と対立することになり粛清されます。その後、突撃隊に代わって台頭してくるのが親衛隊です。
親衛隊はヒトラー直属のボディガードとして1923年につくられました。当初はこのボディガードはアードルフ・ヒトラー衝撃隊と名付けられておりましたが1925年にSS(Schutz Staffel)と改名されます。突撃隊に代わって台頭と先に述べましたが、親衛隊は突撃隊の後に創設されたわけでなく同時期に並行して存在した組織でした。
最終的には衝突してしまうSAとSSですが、この二つの組織の関係については山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』による以下の文章が分かりやすいかと思いますのでここに引用しておきます。

「SSがSAの中から生まれ、その下部組織であったと信じている人は多いが、それは本質を見誤っている。確かに形式的には1934年までSA最高指導部の下にあったとはいえ、それはむしろSAがSSを排除出来ないように巧妙に仕組まれたものであった。母親が体内にいる胎児から離れることが出来ないのと同様、SAもSSを追い出すことができなかったのだ。胎児は十分に発育したら自分から出ていくが、途中で出せば、胎児はもとより母体もなんらかのダメージをこうむるのは避けられない。そして、ヒトラーにとってSAは政権獲得までの使い捨ての道具にすぎなかった。」

組織として細るSAに対して勢力を益々増大させていくSS。後にあの悪名高きゲシュタポを創設するのもこのSSであったわけであります。
ゲシュタポについてはまた改めて詳述していきたいと思います。
今回の報告は以上となります。
ご覧いただきありがとうございました。

今回はクリスタルナハト(水晶の夜)事件についても少し述べました。
先日10月27日、米ペンシルベニア州ピッツバーグのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で銃乱射事件が起こり11人もの方が殺されました。

https://www.bbc.com/japanese/46014139

1938年のクリスタルナハトから80年後の出来事です。


《参考文献》

駒野剛(2018)(ザ・コラム)「無知が生む敵意 国をさいなみ滅ぼす魔物」,『朝日新聞』2018年10月25日付朝刊.
マイケル・ベーレンバウム(1996)『ホロコースト全史』創元社.
芝健介(1995)『武装SS ナチスもう一つの暴力装置』講談社.
ハンス・ペーター・リヒター(1977)『あのころはフリードリヒがいた』上田真而子訳,岩波書店.
山下英一郎(2010)『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社.